世界は因果で動いている
偶然ではなく確率の問題
世界は一見すると偶然と選択の積み重ねで進んでいるように見える。
しかし実際は、もっと冷たい仕組みの上に成り立っている。
そこには意志や努力より先に、因果関係があり、
物質の反応があり、条件と環境と相互作用がある。
あなたが息をすること、眠ること、恋をすることですら
脳内の化学反応と過去の記憶と遺伝子の表現型が
複雑に絡んだ結果にすぎない。
意思決定すら因果の結果であり、
“自由”という概念はその中で後付けされた説明に過ぎない。
世界は因果で進み、人間はその中で起こった現象を
後から“意味”として解釈しているだけだ。
もし世界が因果で動いているのだとしたら、
成功も失敗も、必然でも偶然でもない。
ただ世界がそのように動いただけの話である。
再現性とは“起こりやすさ”である
再現性とは、特定の条件を揃えれば
同じ結果が“起こりやすい”という状態のことだ。
料理のレシピ、筋トレのフォーム、
SNSのアルゴリズム攻略、ビジネスのフレームワーク。
これらは全部、因果の集合体であり、
“起こりやすさ”のパターン化に過ぎない。
再現性が高いということは
誰がやっても同じ結果を生む可能性があるということであり、
すなわち 代替可能性 と同義である。
“あなたじゃなくてもいい”という残酷さ
再現性のある行為とは、条件が揃えば同じ結果が起きやすい行為のことだ。
この時点で、その行為は因果的に他者でも成立しうる領域に置かれている。
その行為にどれだけ努力や使命感が乗っていようとも、再現性があるというだけで、そこからあなた固有の必然性は消える。
つまり成功したという現象から、あなたという主体は切り離されてしまう。
これは冷たいが現実的な話で、人間の心情とは関係がない。
行為に宿るのは再現性であって、主体ではないからだ。
なぜ成功に“必然性”が生まれないのか
人は何かを成し遂げたとき、その結果に特別な意味や必然性を見出しがちだ。
しかし、世界が因果で構成されている以上、結果は特定の条件が揃った時に起こるべくして起こった確率事象に過ぎない。
ある手法で成功したとしても、もし条件が揃っていたなら
それは誰かが同じように成功していた可能性があるということだ。
条件とは環境、タイミング、人的要素、文化的流れや資本など複数の変数が重なった状態のことを指す。
これらの因果によって成立した結果に「自分の必然性」を持ち込むのは、世界ではなく人間が意味を欲したがゆえの解釈である。
主体から見れば「自分が成功した」のかもしれないが、外部から見れば「成功という現象が通過しただけ」でしかない。
SNSマーケ成功が証明してしまうこと
SNSマーケティングの領域では、この事実がはっきりと表面化する。
投稿の時間帯、頻度、企画、ペルソナ、導線設計、アルゴリズム対応など条件を整理して最適化すれば、一定の確率で成果が出る。
そのため、同じ手法で成功した人間が複数生まれる。
すると、成功は個人の能力や必然性ではなく、ただの確率と因果の結果だったことが露わになる。
再現性が証明された瞬間、その手法は
- 教材化され
- コンサル化され
- 外注化され
- 自動化され
- 仕組み化され
- マニュアル化される
つまり他者へ譲渡可能な資源に変わる。
それが意味するのは明確で、
その成功には主体の必然性が存在しなかったということだ。
成功という現象は、あなたを選んだわけではない。
確率的にあなたを通過したに過ぎない。
あなたがいなくても、世界は誰かを成功させる。
では再現性のない成功は実力なのか?
トップインフルエンサーの例
再現性のない成功は、しばしば「実力」と呼ばれる。
特にフォロワー数や影響力といった定量的な成果は、本人の能力、センス、努力の総和で構築されたかのように語られる。
しかしトップインフルエンサーの出現は、
本当に本人の能力に還元できるだろうか。
そこで起きていることは、単純化された「努力の報酬」ではなく、複数の条件が重なった因果の結果である。
一人のインフルエンサーが突出する背景には以下のような要素が複合している。
顔、声、性格、投稿の相性、文化的文脈、
プラットフォームの成熟度、競合の少なさ、
支持されやすい価値観、特定地域や国の気候や時間帯など。
これらを「本人の実力」という一語で回収することはできない。
再現性がない成功は特別に見えるが、その特別さの正体は実力ではなく、単に因果が希薄で複雑なだけである。
遺伝・環境・タイミングという因果
再現性が低い成功は実力ではなく遺伝、環境、タイミングという因果の総体で成立している。
遺伝は身体的特徴や声質、認知特性や性格傾向に影響し、環境は家族構成、友人関係、文化圏、資本へのアクセスや
偶然知り合った人間によって形作られる。
そしてタイミングは
「その時代に、そのプラットフォームがあったか」
「その文化が流行していたか」
「国や地域のアルゴリズムがどう働いていたか」
といった要素として現れる。
これらは本人が選択した結果ではなく、本人の外側に存在する因果の連鎖によって決定されている。
それにもかかわらず、現象として“成功”が生じると、
人間はそれを「自分の力」へと回収したがる。
だがそれは、起きた現象に意味を与えたい人間の物語であり、世界側の説明ではない。
意思すら物質的であるという前提
さらに言えば、人間の意思決定すら因果から逃れられない。
意思は精神的なものではなく、脳内の化学反応、シナプスの活動、ホルモンによる影響、
過去の経験と遺伝的構造の総和として生じている。
「自分で選んだ」という感覚は本人には存在するが、それは因果の結果に付与された主観的ラベルであり、
自由意思の証明にはならない。
もし意思が物質的であり、
行動が因果に従い、
成功が条件の揃った確率事象であるならば、
再現性のない成功を“実力”と言い切ることはできない。
実力とは、本来
外側から観測可能な成果の総称ではなく、因果の中で生じた一つの現象に過ぎない。
つまり実力は実体ではなく、事後的に付与された概念である。
結局、代替できないものは何か
行為ではなく“感じ方”が唯一性を持つ
ここまでの流れで見えてくるのは、行為は条件化され、再現され、
代替され得るものだということだ。
つまり行為そのものは因果の外側には存在しない。
では代替できないものは何か。
それは、行為に付随する“感じ方”である。
同じイベントを経験しても、それをどう感じるかは個人に固有であり、他者が模倣することはできない。
感じ方とは具体的に
身体反応、情動、意味付け、記憶の生成方法
などを含む内部過程であり、それらは条件として完全に外部化できない。
つまり唯一性は行為ではなく主観内部の経験に宿る。
行為は再現できても感じ方は再現できないという単純な事実こそが主体の下限を規定している。
行動はコピーできるが経験はコピーできない
行動は観測できる。
観測できるものは模倣できるし、模倣できるものは仕組みに還元される。
一方、経験は外部から観測できない。
外部から観測できないものは共有も代替もできない。
同じ一冊の本を読んでも、同じ映像を見ても、同じ都市を歩いても、同じ成功を収めても、
経験は同一にはならない。
行動とは外側の出来事であり、経験とは内側の出来事である。
因果の中で模倣可能なのは外側だけであり、内側は模倣の対象にならない。
この区別が崩れると努力を過小評価したり過大評価したりするが、
実際はそのどちらでもなく、ただ領域が異なるだけである。
あなたが他人になれないという事実
行動と経験の区別を踏まえた上で、最終的に代替されない領域は
主観であると言える。
あなたは他人の外側の行為を模倣できるし、他人はあなたの行為を模倣できる。
しかし
あなたは他人の内側になれず、
他人もあなたの内側にはなれない。
世界が因果で構成されていて行為が再現可能で
成功が確率事象であるならば、
主体が唯一である理由は能力や実力ではなく
単純に「内側から世界を見る存在」であることだけになる。
あなたが感じているという事実だけは、他者による代替も再現も観測もできない。
それが、結局のところ
代替不可能性の正体である。
最後に
代替可能な生き方でも満たされるなら尊い
ここまでの話は、再現性のある行為が代替可能であり、成功に必然性がないことを示してきた。
しかしそれは、代替可能な生き方が劣っているとか、
空虚であるという話ではない。
世界が因果で動く以上、
代替可能な領域で生きることは自然であり、
そこに満足や充実を感じられるなら、それは尊い生き方だといえる。
問題は、その生き方の価値を外側の尺度や物語で測ってしまうことにある。
もし外部に依存せず自分の生活に納得できているなら、
それは誰にも損なえない確かな尊さである。
浅い物語は苦しむ人を救えない
一方で、自分が生きている理由を見失ったとき、
浅い物語や自己啓発的な言い聞かせは役に立たない。
それらは現実とのギャップをさらに浮かび上がらせ、苦しみを増やすことの方が多い。
なぜなら、自己正当化の物語は
主体や因果を理解する前に
「価値を信じろ」と要求するからだ。
理由がわからないまま信じることは難しいし、
信じられない自分を責める構造が生まれてしまう。
そうなると救いではなく負荷になる。
それでもあなたの主観は消えない
行為は代替可能であり、結果は確率的であり、成功は因果に過ぎない。
それが世界の仕組みだとしても、
あなたの主観はそれとは別に存在している。
世界をどう感じたか、
どんな意味を与えたか、
何に傷つき、何に満たされたか。
それらは他人には再現できず、置き換えることもできない。
あなたは他人にはなれず、他人もあなたにはなれない。
その事実は、再現性や結果とは関係なく存在している。
だから救いの言葉を用意する必要はない。
代替可能な世界の中に、代替不可能な主観がただ一つ残っている。
それだけで十分である。


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