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なぜ偽善は気持ち悪く感じるのか?|行動と内面のズレ

目次

気分がいい日もあれば、悪い日もある

気分がいい日もあれば、悪い日もあります。

気分がいい日には、
席を譲ることもあります。

(逆に、余裕がない日は見なかったことにしたりもする。)

でも、席を譲ったあとに、
「これは偽善なんじゃないか」と思ってしまうことがあります。

周りの目を気にしていただけかもしれない。
ただ、そのとき気分が良かっただけかもしれない。

(ちょっといい人っぽく見られたい、みたいな。)

もし気分が悪い日だったら、
同じことはしなかった気もする。

そう考えると、
少し卑しい自分が浮かび上がってくるような気がします。

そして、いいことをしたはずなのに、
少しだけ気分が悪くなる。

自分は、そんなにいい人じゃないんじゃないか。
そんなふうに思ってしまうこともあります。

逆に、他の人がいいことをしているのを見ると、
「ただの偽善じゃないか」と決めつけてしまうこともあります。

たとえば、有名人が募金をしているのを見て、
売名行為にしか見えないと感じてしまう。

そして、そう決めつけたあとに、
少しだけ嫌な気持ちになる。

どうすれば、100%の善を出せるのか。
そもそも、善とは何なのか。

そんなことを考えてしまうことがあります。

だから、一度、
偽善というものについて考えてみようと思います。

人はそれを「偽善」と呼ぶ

こうした違和感に対して、
人は「偽善」という言葉を当てはめます。

いいことをしているはずなのに、
どこか引っかかる。

その引っかかりに名前をつけたものが、
偽善という言葉なのかもしれません。

一般的な偽善の定義

まずは、一般的な「偽善」の定義から見てみます。

辞書では、偽善とは、

「うわべをいかにも善人らしく見せかけること。また、そういう行為。」

とされています。

この定義に従うと、

自分に対して、
「いかにも善人らしく振る舞っているな」と感じたとき、
それを偽善と呼ぶことになります。

また、他人に対しても同じで、

「本当はそうじゃないのに、善人のように見せている」と感じたとき、
それを偽善だと判断していると言えます。

「見せかけ」という前提は正しいのか

ただ、この定義には、
一つ前提が含まれています。

それは、
「見せかけているかどうかを判断できる」という前提です。

でも実際には、
人の内側にある動機は外からは見えません。

見えるのは、あくまで行動だけです。

それでも人は、
その行動の裏にある動機を想像して、

「これは本心ではない」
「見せかけているだけだ」

と判断しています。

偽善は本当に判断できるのか

ここまで見てくると、
そもそも偽善というものは、
正確に判断できるものなのかという疑問が出てきます。

動機が見えない以上、
それを「見せかけ」と決めつけているだけかもしれません。

他人の偽善は“想像”でできているのか

他人に対して「偽善だ」と感じるとき、

人は、
見えていない動機を補って、意味を作っています。

「本当はこう思っているはずだ」
という前提を置いて、

その行動に意味を与えている。

つまり、他人の偽善は、
想像によって作られているとも言えます。

自分の偽善はどこから来るのか

では、自分に対してはどうでしょうか。

自分の内側は見えているはずなのに、
それでも「偽善だ」と感じてしまうことがあります。

たとえば、
いいことをしたあとに、
「評価されたかっただけではないか」と思ってしまう。

このとき感じているのは、
行動そのものへの違和感というよりも、

その裏にある動機とのズレです。

偽善を強める“自分への前提”

ただ、そのズレは、
そのまま感じられているとは限りません。

「どうせ自分は純粋じゃない」
「結局、自分のためにやっているだけだ」

そういった前提があると、

同じ行動でも、
より強く「偽善」と感じるようになります。

つまり、自分に対する偽善は、
単なるズレではなく、

自分に向けたネガティブな見方によって
増幅されている可能性があります。

人の動機は混ざっている

そもそも、人の行動は
ひとつの動機だけでできているわけではありません。

誰かを助けたいという気持ちと、
評価されたいという気持ち。

どちらも同時に存在していることは、
自然なことです。

人の動機は、だいたい混ざっています。

善意100%みたいな状態の方が、むしろレアかもしれません。

純粋な善を求めるとズレる

それでも、
「純粋な善でなければならない」と考えた瞬間、

現実との間にズレが生まれます。

人の行動は混ざっているのに、
それを単一の基準で評価しようとする。

そのズレが、
違和感や自己否定につながっていきます。

 偽善と感じること自体がズレのサイン

ここまで見てくると、
偽善そのものだけでなく、

「偽善と感じている状態」自体にも
目を向けることができます。

なぜ、その行動に違和感を感じたのか。

なぜ、それを「見せかけ」と判断したのか。

少しだけ立ち止まってみると、
そこには自分の中の前提が見えてきます。

たとえば、
「善は純粋であるべきだ」という前提があると、

少しでも別の動機が混ざった瞬間に、
それを偽善と感じるようになります。

(ちょっとでも不純だとアウト、みたいな厳しさ。)

つまり、偽善は行動そのものにあるのではなく、

それをどう見ているかの中で
生まれているとも言えます。

偽善という言葉の粗さ

こうして見ていくと、
「偽善」という言葉は、

複雑なものを一つにまとめてしまっている
かなり粗い言葉だと言えます。

動機、行動、前提、解釈。

それらが混ざった状態を、
一言で切り取ってしまっている。

偽善は存在するのか

では、偽善は本当に存在するのでしょうか。

見方としては、存在しているとも言えます。

違和感に名前をつけたものとして、
偽善という言葉は機能しています。

ただ、それが
はっきりとした性質として存在しているかというと、
少し曖昧になります。

ここでもう一つ、
見方を変えてみることができます。

偽善は、
行為そのものにあるというよりも、

それをどう判断したかの中に
生まれている可能性があります。

つまり、
ある行為を見て「偽善だ」と感じたとき、

それはその行為の性質というよりも、
それを見ている側の解釈に近いものとも言えます。

あなたが偽善だと感じたなら、
少なくともその見え方の中では、偽善として成立します。

一方で、
同じ行為であっても、

それを偽善だと感じない人にとっては、
偽善ではありません。

また、自分自身に対しても同じで、

どれだけ周りから偽善だと言われたとしても、
その行為や動機に対して
自分の中で納得がある場合、

それを偽善とは感じないこともあります。

このように考えると、

偽善は
「そこにあるもの」というよりも、

どの位置からどう見ているかによって
立ち上がってくるものとも言えます。

まとめ

偽善という言葉は、
違和感に名前をつけたものかもしれません。

その違和感は、
行動と動機のズレや、
自分の中にある前提から生まれています。

そして、その見方によって、
同じ行動の意味は変わります。

だからこそ、
それをそのまま「偽善」と決めつける前に、

一度、その見方を疑ってみてもいいのかもしれません。

自分に対して「偽善かもしれない」と感じたときも、
それを無理に否定する必要はないのかもしれません。

少しだけ距離を置いて、
「そういう見え方をしているだけかもしれない」と
捉えてみる。

そうしているうちに、
いつの間にか、

偽善という言葉に含まれていた“偽”が、
少し軽くなっていることもあるのかもしれません。

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