プロフィール

ただの「ゆーま」がブログを始めた理由。

今の時代、「一貫性」が求められる。

自分の夢、目標、目的。

薄っぺらい言葉にまとめて、

自分という人間を一言で説明しなきゃいけない。

でも、本当はそんな単純じゃないはずなのに…。

いつも、矛盾した考えが頭の中を行ったり来たりする。

「頑張りたい」けど「頑張りたくない」。

「好き」だけど「嫌い」。

どちらか片方を選べたら楽なのに、

どっちも自分の本音だったりする。

みんなには「考えすぎ」と言われる。

でも、自分では止められない。

本当はもっとシンプルでいいのかもしれないのに、

勝手に世界が複雑に見えてしまう。

スピリチュアルにハマれる人を羨ましいと思ったこともある。

よくわからない惑星が「パワー」をくれる、

そんな世界に生きられたらどれほど楽だろう。

でも僕は、どうしてもその“綺麗な嘘”に寄りかかれなかった。

穿った目で見てしまう自分がいて、

スピリチュアルに傾倒できる日はきっと来ないと思う。

だけど、そのぶんわかることもある。

同じように

敏感すぎて、物事を複雑に感じてしまう人のしんどさ

が痛いほどわかる。

HSP気質なのに、スピリチュアルにも逃げられない。

甘い言葉じゃ安心できない。

なのに、世界の矛盾や自分の揺れだけが

やけに鮮明に見えてしまう。

そんな人が実はたくさんいる。

でも、誰もその人たちのために言葉を書いていない。

「頑張りたいけど頑張れない」

「信じたいけど信じられない」

「癒されたいのに、薄い言葉じゃ響かない」

そんな矛盾を抱えたまま生きている人へ。

このブログは、

“矛盾したままでいい” と言える場所にしたい。

僕の背景

僕の罪

僕はお寺の家系に生まれました。

宗教がいつも近くにある人生でした。

でも、そんな環境に育ちながら、

僕は仏教を“宗教として”信じることができませんでした。

信じようとしなかったわけじゃない。

否定したかったわけでもない。

ただ、僕の心はどうしても

「信じたふり」を許してくれなかった。

救いを求めて仏教に縋る人がいる中で、

一番身近な僕だけが縋れない。

その事実が、ずっと“罪”のように胸に残っていた。

それが、僕の罪だった。


そしてその罪には、罰があったのだと思う。

子どもの頃は気づかなかったけれど、

大人になってはっきりわかってしまった。

世の中の多くの人は、

本音ではなく “綺麗な嘘” によって救われている。

「きっと良くなるよ」

「宇宙が味方してくれるよ」

「波動が変われば人生も変わるよ」

「意味があって起きているんだよ」

その“嘘”が必要なときが、人には確かにある。

そして、その嘘に救われる人も確かにいる。

でも──

僕だけは、その綺麗な嘘を心に入れることができなかった。

嘘だと知りながら希望を信じる、

その力がどうしても欠落していた。

宗教にも寄りかかれなかった。

スピリチュアルにも逃げ込めなかった。

信じることを拒んだわけじゃないのに、

信じる心がどこにも見つからなかった。

その結果、僕には

“救いの代用品” が一つも残らなかった。

まるで、

宗教を信じられなかったという罪に対して、

「お前は綺麗な嘘では救われない」

という罰を与えられたかのように。

それが長いあいだ、

僕の中に沈んでいた静かな痛みだった。

複雑に考えすぎてしまう生きづらさ

僕は昔から、

物事を“そのまま”受け取るのが苦手でした。

特別に頭がいいわけでも、

洞察力が鋭いわけでもありません。

ただ、

普通なら軽く受け流せることが、

どうしても心に引っかかってしまう。

人の表情の少しの変化や、

言葉の裏の温度、

場の空気の揺れ。

そういう細かいものに過剰に反応して、

必要以上に深く考えてしまう。

本当はシンプルに捉えればいいのに、

勝手に複雑に感じてしまう。

これが僕の“HSP気質”でした。

僕の場合、

敏感さは「優しさ」ではなく、

むしろ「不器用さ」に近かった。

楽に構えていればいい時ほど、

余計なところまで考えてしまう。

人の何気ない言葉に反応しすぎたり、

本当は悪意のない出来事を

勝手に重く感じてしまったり。

そういう自分を「考えすぎ」と言われると、

確かにその通りだと思う反面、

止め方もわからなかった。


そして、この敏感さが

**“綺麗な嘘が効かない理由”**でもあった。

普通なら希望として受け取れる言葉を、

僕はどうしても素直に飲み込めなかった。

「大丈夫だよ」

「きっと良くなるよ」

「意味がある出来事だよ」

そういう慰めの言葉の“裏”にある空白を、

過剰に感じ取ってしまうからだ。

だから僕は、

宗教の優しい言葉にも、

スピリチュアルの救いの言葉にも

寄りかかることができなかった。

それは強さではなく、

ただの「敏感さの副作用」だった。

ただのゆーま。

これが、僕の背景です。

形は違っても、

似たような生きづらさを抱えている人は

きっとどこかにいると思う。

もし、このブログの記事が

誰かの“生きやすさ”につながれば嬉しい。

別に、特別賢いわけでもないし、

哲学を深く勉強してきたわけでもない。

ただの、そこらへんにいる「ゆーま」です。

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