前の記事で書いたように、
僕は自己啓発という物語の中で生きていた。
努力すれば変われる。
頑張れば報われる。
そんな物語だ。
でも、その物語は長くは続かなかった。
少し視点を変えるだけで、
その物語は簡単に崩れてしまった。
生まれた場所。
生まれた時代。
生まれ持った体。
それらを考えたとき、
努力だけで世界を説明することはできないと思った。
僕が信じていた物語は、
視点を少し変えるだけで崩れてしまう
布切れのようなものだった。
そして物語が剥がれたとき、
僕の前に残ったのは因果だった。
僕は多分、昔から少し冷めた人間だったのかもしれない。
自分を救ってくれる物語を探しているくせに、
どこかで物語のことを浅いとも思っていた。
本当は、最初からわかっていたのかもしれない。
ただ、目を逸らしていただけだった。
僕にとって「因果」という言葉は、
別に難しいものではなかった。
ただの流れだ。
原因があって、結果がある。
それだけのこと。
多分僕は昔から、
なんとなくそれを理解していた。
でも、それだけだと冷たい。
悲しい。
だから僕は、そこに物語を貼り付けていた。
でもこの頃の因果理解は、
それまでとは少し違っていた。
それは
自分と他人の境界線のなさだった。
よくバタフライエフェクトという言葉がある。
遠くで起きた小さな出来事が、
未来に大きな違いを生むという考え方だ。
それを意識した瞬間、
僕は何も行動できなくなった。
自分の行動が、
どこかで誰かを傷つけるかもしれない。
もしかしたら、
誰かを殺してしまうことすらあるかもしれない。
そんなことを考えるようになった。
そして僕は、
因果に回収されることを恐れるようになった。
世界は動いている。
僕もその中の一部だ。
それなのに、
どこかで僕は
自分だけがその因果の外にいるように考えていた。
そして、ある疑問が生まれた。
もし世界が
ただの因果の連なりだとしたら、
そこに意味が入り込む余地は
あるんだろうか。
努力の意味。
人生の意味。
生きる意味。
考えれば考えるほど、
僕にはわからなくなっていった。
世界は動いている。
でもそこに
意味があるとは思えなかった。
ただ、因果が続いているだけだった。
でも今思えば、
そのときの僕もまた
その流れの中の一つの要素に過ぎなかったのかもしれない。


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